2025年11月9日(日)
第一朗読 マカバイ記 ②マカバイ7・1-2、9-14
その日、七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。彼らの一人が皆に代わって言った。「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」
二番目の者も息を引き取る間際に言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」
彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、毅然として言った。「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」そこで、王自身も、供の者たちも、苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。
やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。死ぬ問際に彼は言った。「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」
第二朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 ②テサロニケ2・16-3・5
皆さん、わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。
終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。
福音朗読 ルカによる福音 ルカ20・27-38
今日は、ローマにあるラテラノ大聖堂の献堂記念日を祝います。ラテラノ大聖堂は、ローマ・カトリック教会の母なる教会であり、ローマの司教である教皇の大聖堂です。この祝日は、教皇への愛を示し、教皇との一致を新たにする招きです。また、神様の神殿である教会そのものがキリストの神秘体であるという意識を呼び覚ます機会でもあります。礼拝の場としての物理的な建物だけでなく、何よりも「生ける石」としてそれを構成する信者の共同体こそが教会なのです。したがって、今日は私たちの教会、私たちの共同体の祝日でもあります。神の家族であり、生ける神殿です。私たちが聖体拝領を祝うために集まるとき、それは明らかに示されます。この素晴らしい現実の一部であることを心に留めましょう。心を一つにし、声を合わせて、信仰と希望を分かち合うすべての人々とともに、主を礼拝し、栄光を讃えましょう。
今日のヨハネによる福音書は、私たちにいつもとは異なるイエズス様の姿を示しています。優しい癒し主でも、たとえ話を教える者でもなく、熱意に燃える正義の改革者として、商人や両替商を神殿から追い出す姿です。これは聖なる怒り、神様の情熱、そして深い霊的意味を持つ瞬間です。イエズス様は神殿—御父の家—に入り、商業主義によって汚されているのを見つけます。祈りと礼拝のための聖なる場所が、商売の場となっていたのです。イエズス様の行動は迅速かつ劇的です。縄で鞭を作り、机を倒し、硬貨を撒き散らし、「わたし
の父の家を商売の家としてはならない」と命じられます。これは単なる怒りの爆発ではありません。預言的な行動です。イエズス様は神殿を清めるだけでなく、礼拝を堕落させ、商品化した体制全体に立ち向かっているのです。搾取され、虐げられている貧しい人々を擁護し、敬虔さ、聖性、そして神様との真実の関係への回帰を呼びかけています。その権威について問われたとき、イエズス様は神秘的に語られます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」群衆はそれを物理的な建物のことだと誤解します。しかしイエ
ズス様が語っていたのは、ご自身の体 — 真の神殿、神様が私たちの間に住まわれる真の場所 — のことでした。この瞬間は、イエズス様の死と復活を予告しています。イエズス様の体という神殿は十字架で破壊され、三日後に復活されます。これによって、神様が住まわれる場所は物理的な建物ではなく、キリストのうちに、そしてキリストを通して私たち一人ひとりのうちにあることが再定義されるのです。私たちは聖霊の神殿です。私たちの心、私たちの人生は、神様が住まわれる場所であるべきです。しかし、どれほど頻繁に、雑念、利己心、貪欲さ、傲慢さ、憎しみ、嫉妬、霊的な怠慢によって、私たちの内なる神殿が乱されていることでしょうか。イエズス様の神殿の清めは、私たち自身の心を見つめ直すよう招いています。私たちの人生の中で、どんな虚栄の机が倒されるべきでしょうか?どんな妥協の硬貨が撒き散らされるべきでしょうか?神様に場所を空けるために、どんな気を散らすものが追い出されるべきでしょうか?
「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と弟子たちは思い出しました。私たちもまた、教会の建物だけでなく、私たちの人生における神様の臨在に対して、熱意に燃える者となりましょう。聖性、正義、真理に情熱を持ちましょう。自分自身の中にある誤りに立ち向かう勇気を持ち、キリストに私たちを清めていただきましょう。この福音が、私たちのうちに聖なる火を燃え上がらせますように — 神様の愛によって清められ、聖霊に満たされた真の神殿となることへの願いを。アーメン。
フリッツ神父
